2010年12月28日

《ブライユ生誕200年》真の点字発祥地クーヴレー村を訪ねて3−−忘れられた墓地(2/2ページ)

http://mainichi.jp/universalon/report/archive/news/2009/20090219mog00m040008000c2.html

◇サン・ピエール教会

写真411時45分。正午の鐘が聞けるかもしれないということで、フランス語なまりの強い英語を話すツアーガイドのムッシュに教会に入れるかどうか聞いてみると、あいにく日曜のミサ以外は閉まっているということだった。外側を一回りするだけでもいいと思い、第1陣のバスグループを見送りながら僕らは役所のそばにあるサンピエール教会=写真4=に向かった。200年前のこの日、1月8日は生まれてまもないブライユがここでカトリックの洗礼を受けているのである。

さっき下りてきた急斜面を上っていると、春のような暖かな日差しを感じた。

「1月のパリでこんな陽気は珍しいです」とTさんが説明した。

ブライユが僕らを祝福してくれているのかもしれないと思った。それにしても、こんな山道をブライユは毎日1人で歩いて学校に行っていたのだろうか。来る時に感じたこの疑問を先ほどのムッシュにぶつけたところ「近所の子がいつもガイドしていたようです」と教えてくれた。ちなみにまだ白杖というものがなかった時代である。

正午を告げる教会の鐘が鳴ったものの、教会の扉は固く閉じられたままだ。中に人の気配はない。自動的に鳴るのだろう。ドンドンと扉をたたくと、大きな残響が内部の空間に吸い込まれていった。

前回訪れたときに中に入った大内氏が「50人くらいが入れる小さな教会ですよ。ブライユが弾いたオルガンがありました」と説明してくれた。

 ◇共同墓地

写真5クーヴレーで最後に訪れたのはブライユの両手が納められている村の共同墓地。遺族からの強い願いで、ブライユの死後100年に当たる1952年にパンテオンに遺灰が移されたときに両手だけをここに残したということだ。門を開けて墓地の中に入ると、朝に降った雪の上に人が通った痕跡がなかったことから、その日は誰も来ていないことが分かった。墓の上に積もった雪を少し払って墓石の上や十字架に点字表示がないか探ってみたが、見つからなかった。(写真5:ブライユの両手だけが残されたクーヴレーの共同墓地。)

隣には父親のシモン‐ルネと2番目の姉のマリーも葬られているという。誰かが手向けた陶器の花がぽつんとさびしく置かれていたのを見て、手ぶらで来てしまったことを後悔した。

ダーウィン、リンカーン、そしてブライユ。今年生誕200年を迎えたこれら世界的な3偉人の中で、パンテオンに祭られてはいるものの、ブライユだけが母国フランスの中ですらほとんど無名のままの地位しか与えられていないのは寂しい気がした。

【岩下恭士】

2009年2月19日記事
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2010年12月27日

《ブライユ生誕200年》真の点字発祥地クーヴレー村を訪ねて3−−忘れられた墓地(1/2ページ)

http://mainichi.jp/universalon/report/archive/news/2009/20090219mog00m040008000c.html

◆サン・ピエール教会(2ページ)

◆共同墓地(2ページ)

ラフィグラフと並んで初めて触れたのが、ブライユが6点点字を思いつくきっかけとなったシャルル・バルビエの12点点字だ。陸軍の砲兵隊長だった彼は夜間暗号用の文字としてこの「エクリチュール・ノクチュルヌ(夜間書記法)」を考案したものの、軍隊では採用されなかった。そこでバルビエは盲人用の文字として利用できないかと考えてブライユの在籍していたパリ盲学校を訪れることになる。

生家に展示されていた12点点字は、1文字が縦6点、横2点と縦がブライユ点字よりも2倍の長さで、ブライユ点字のように人差し指の第1関節で読むには長すぎることが実感できた。だが点の数だけでなく、バルビエの点字はアルファベットを使わないというブライユ点字との決定的な違いがあった。ソノグラフィーとも呼ばれるバルビエの点字はフランス語の音素を36種類に分けて、左の列で縦、右の列で横の座標を示すようになっていた。

アルファベットに準拠したブライユの6点点字は、もともとフランス語にはなかったwを除いた25文字を表のように1列目a〜j、2列目k〜t、3列目u〜zの3グループに分け、2列目の文字は1列目に左下の点(3の点)をそれぞれ加えたもの、3列目の5文字は1列目のa〜eに左下の点と右下の点(6の点)を加えたものになっている。(写真1:ブライユの6点点字一覧(ヴァランタン・アユィ協会発行のパンフレットより抜粋))

当初、バルビエはブライユの6点点字に対して否定的な態度を取ったが、最終的にはその優位性を認めたという。なお、フランスでブライユ点字が公認されたのはブライユの死後26年を経た1878年のことで、米国では1917年のことである。

ちなみに同じ6点点字を用いて、8分音符のレはd(145の点)、4分音符のレはdに右下の6の点を加えた「1456の点」のように、それぞれの音符の長さと音程を区別できるようにしたブライユの点字楽譜はそれまで視覚障害者が楽譜を読む手段がほかになかったことから、アルファベットよりも早く盲学校の音楽教育などに採用されていたという。もしもブライユが点字楽譜を考案していなかったら4日の夜に聴いたルゲーの荘厳なオルガン演奏も生まれなかっただろう。


写真2ところで、点字のアルファベットや数字は全世界共通と一般的に言われているが、本家フランスの数字表記は6点のうち上の4点だけを用いる数字のそれぞれに右下の6点を加え、その代わりに数字であることを示す数府(3456の点)を用いないという独特の表記を採用していた(245の点から成る0だけはwと重なるため上下を入れ替えて4の点を付ける)=写真2=。この点について、パリ盲学校を訪れたときにエクター氏に理由を訊いたところ、「アルファベットとの混同を避けるために1920年代に盲目のフランス人数学者アントワンがこの表記を提唱した」とのことだった。


写真3このほか生家では、炭の入った容器に足を乗せて温めるフットウォーマー、チーズを作るための円形の巨大な容器など当時ブライユの家族が実際に使っていた日用品、馬具職人だったブライユの父親が使い、ブライユの失明につながった鋭い刃物などを触って見学した。農業にいそしみ、ワインやチーズを作り、パンを焼いて自給自足の暮らしをしていた当時のクーヴレーのブライユ家の暮らしぶりが目に浮かぶようだった。(写真3:ブライユの家族が実際に使っていた日用品)

2009年2月19日記事
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2010年12月26日

《ブライユ生誕200年》真の点字発祥地クーヴレー村を訪ねて2−−デカポワン

《デカポワンとラフィグラフ》

ブライユと言えば「点字の父」、「点字の考案者」という業績ばかりが知られているが、実は彼にはもう一つ同じくらい、いやもしかするとグラハム・ベルの電話と同じように障害者のために開発された技術が後に一般の市場に受け入れられたという点でもっと大きな貢献に値するイノベーションを成し遂げているのである。

僕自身クーヴレーで初めて触ったのだが、ブライユは点字の考案と並行して視覚障害者が独力で墨字(活字)を書く方法を研究していたのである。電話もインターネットもなかった当時、経済的な事情から夏休みなど長期休暇に帰省できないパリ盲学校の生徒たちに残された家族とのコミュニケーション手段は手紙だけだったのだが、代筆では聞き間違いが多く、またプライバシーが守らないという理由から何とか自分で墨字を書きたいというのが彼らの切実な願いだったのである。

視覚障害者の社会参加の実現には晴眼者と同じ文字を学ぶことが不可欠と考えていたヴァランタン・アユィは浮き出し文字以外の特別な盲人用文字の可能性について否定的だったため、盲学校の生徒たちは墨字のアルファベットを学んでいた。しかし、実際には浮き出し文字を自由に読みこなせたのはブライユなど極一部の生徒に限られていたという。また、浮き出し文字は読めたとしても、目の見えない生徒が自分で書く手段がなかった。中にはハンドライティングで墨字を書く者もあったが、書きながら文字が確認できないために、重複や行の乱れなど多くの困難を伴った。

そこでブライユは、縦10×横10の点のパターンで活字のアルファベットを表せるデカポワン(decapoint=10点の意味)という一種の点線文字を考案する。これは視覚障害者自身が活字で手紙を書いて目の見える家族や知人に送れるだけでなく、目の見える人もこれを使って盲学校の生徒たちに手紙を書くことができる双方向のコミュニケーションメディアであった。ブライユの生家には、このデカポワンで書かれた文書が展示されていた。100画素以下でアルファベット1文字を表現するためかなり簡略化されてはいるものの、触読でもはっきり文字の形を読み取ることができた。

デカポワンには、縦10点のうち、中4点で文字の本体部分を表し、上3点と下3点で本体から伸びた線などを表すという原則があり、たとえば小文字のaは、左から縦1列目が5・6、2列目が4・7、3列目が4・7、4列目が3・4・5・6、5列目が7」という具合だ。ブライユは、アルファベットの全文字について、この座標形式で点を打つ場所を定めた番号表を作成している(ピエール・アンリ「点字発明者の障害」参照)。

ブライユは、デカポワンを書くための筆記具開発にも取り組んでおり、パリ盲学校OBで印刷店を営んでいたアレクサンドル・フルニエに専用のグリッド(文字を打つ部分に穴の空いた枠)の製造を依頼しているが、これは現存していない。また後に盲目のトランペッター、ピエール・フーコーとの協力で、トランペットのピストンを応用した「ラフィグラフ(Raphigraphe)」と呼ばれる筆記具も開発している。(写真:今日のドットマトリックスプリンターの原理を先取りしていたラフィグラフ)

これは、縦1列の10個の点を同時に打ち出せる10本のピストンを操作して1列ずつの点を打ち出していく仕組みで、次の列、次の文字への移動も簡単にできるように作られていた。20世紀に入って開発されたドットマトリックスプリンターは、まさしくこのブライユのラフィグラフの原理を用いたものである。

なお、同様に視覚障害者のために開発された技術が一般に広がったケースとしてよく知られているタイプライターのルーツは、1808年イタリアで盲目の伯爵夫人カロリーナ・ファントーニ・ダ・フィヴィッツォーノのために作られたもので、生産が始まったのは1867年以降のことである。【岩下恭士】

2009年2月18日記事
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