2010年12月31日

《ブライユ生誕200年》5人の盲人作曲家のオルガン曲を披露−−ノートルダム大聖堂で

http://mainichi.jp/universalon/report/archive/news/2009/20090212mog00m040045000c.html

◇5人の盲人作曲家のオルガン曲を披露−−ノートルダム大聖堂で追悼リサイタル

1月4日の夜は、教会オルガニストでもあり、即興演奏が得意だったというブライユの追悼オルガンリサイタルがノートルダム大聖堂=写真1=で開かれた。21時という日本のクラシックコンサートでは考えられない遅い開演時間だったので、献花式のあったパンテオンを後にした僕らはソルボンヌ大学に立ち寄ってからカルティエ・ラタンの一角にあるレストランで腹ごしらえをした。写真2の赤ワインとアツアツのグラタン、そしてパリではおかわり自由が当たり前のバゲットを堪能したあと、日本で言えば「100円均一」に相当するどれでも1ユーロの中古CDショップや古書店を冷かした。

セーヌ川岸にあるノートルダム大聖堂までは歩いて10分足らず。氷点下の寒気に耐えながら開場を待っていると、一般客の長蛇の列ができた。僕らは昼に立ち寄ったヴァランタン・アユィ協会で幸運にも招待券を手に入れたので、受け付けが始まると比較的早く聖堂内に入ることができた。

演奏者のジャン‐ピエール・ルゲー自身全盲のオルガニストで、当日は、ルゲーを含む5人の盲目の作曲家・オルガニストの色彩豊かな作品が披露された。彼らはいずれもパリ盲学校の卒業生で、後にパリの高等音楽院に進学し、音楽教師やノートルダムなどパリの名だたる教会のオルガニストとして活躍。特にオルガニストとしては、ブライユ同様即興演奏の名手として知られているという。

以下、当日配布された点字のプログラムの紹介文から5人のプロフィールを簡単に記しておきたい。中にはクラシック音楽の愛好家として名前は知っていたものの、盲人とは知らなかった作曲家も含まれていて興味深い。

 ◇オーギュスタン・バリエ(Augustin Barie 1883−1915)
スコラ・カントルム音楽院長のアレクサンドル・ギルマンらにオルガンを師事。サン・ジェルマン・デ・プレ教会のオルガニストで、パリ盲学校の音楽教師でもあった。

 ◇ルイ・ヴィエルヌ(Louis Vierne 1870−1937)
セザール・フランクの弟子で、パリ音楽院やスコラ・カントルムなどの教授を歴任。サン・シュルピス教会やノートルダム大聖堂のオルガニストでもあったが、病気や家族の死など悲劇的な生涯を送ったと伝えられる。「ウェストミンスターの鐘」や「Pastorale(田園)シンフォニー」を作曲。

 ◇ガストン・リテーズ(Gaston Litaize 1909−1991)
1938年ローマ対象2位を受賞。パリ盲学校教師、サン・モール・デ・フォセコンセルバトワール教授、サン・フランソワ・ザビエル教会のオルガニスト。「24の典礼のためのプレリュード」などを作曲。

 ◇ジャン・ラングレ(Jean Langlais 1907−1991)
「魔法使いの弟子」の作曲で有名なポール・デュカスに師事。パリ盲学校、スコラ・カントルム教授。サン・ピエール・ドゥ・モンルージュ教会、サント・クローチルド・バシリカ教会などのオルガニスト。多作の作曲家として知られ、「フレスコヴァルディへのオマージュによる主題と変奏」、「三つのグレゴリオ風パラフレーズ」などが有名。

 ◇ジャン−ピエール・ルゲー(Jean−Pierre Leguay 1939−)
リテーズらにオルガンを学ぶ。パリ高等音楽院でオリヴィエ・メシアンに作曲法を学ぶ。当日の演奏では、現代音楽の抽象性の中にメシアンの「トゥーランガリラ」を想起させる平和的なハーモニーが感じられた。

多数の音楽賞で1位を獲得、即興オルガニストとして名誉教授の授与されている。現在、国際的に演奏活動を行う。

これまでに器楽曲、声楽曲など60作品があり、映画音楽の制作にも取り組んだ。

2009年2月12日記事

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2010年12月30日

《ブライユ生誕200年》世界最初の盲学校INJA(2/2ページ)

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◇ピアノ調律で職業的自立
職業訓練はほとんど隣のヴァランタン・アユィ協会に移管されたが、ブライユが在学していた1830年代から続いているピアノ調律と修理を教えるコースだけは今でも盲学校で開講されている。本当にこれだけで生活ができるほどの収入になるのかエクターさんに訊いてみると、「パリのコンセルバトワール(音楽学校)などからの依頼があるが、電子ピアノの普及などで個人客からの需要は激減している」と嘆く。(写真4:ピアノを修理したり調律するブース。)

パリ盲学校ではこれまで多くの卒業生がピアノの調律か教会でのオルガン演奏で自立してきており、音楽以外では、かつてはベッドのマット作りや縫物、印刷などが校内のワークショップで行われていた。


写真5 ◇音楽は今でも自立の道
ブライユが同校の音楽教師でもあったように、楽器の演奏や声楽は今でも重要な科目になっている。音楽科では、週38時間のソルフェージュ、18時間の器楽(ギター、ピアノ、オルガン、打楽器、トランペット、サクソフォンなど)のレッスンを行う。中にはコンセルバトワールの教授による授業もあるという。当日見学したピアノの練習室では、すでにジャズのビッグバンドに入って仕事をしているという高校生のモランさん=写真5=が、ドビュッシーとスタンダードナンバーの「黒いオルフェ」を披露してくれた。物おじせず自分から「ジャズも弾けますよ」と言いながら弾き始めるところは日本人も見習いたい積極性だ。

◆生徒のモランさんのピアノ演奏:ドビュッシーのベルガマスク組曲と黒いオルフェ。(mp3)


写真6 ◇高まるコンピューター習得への期待
支援科目では、点字やタイプライター以上に、コンピューターへの関心が高まっているという。あいにく授業を見学することはできなかったものの、フランス語のスピーチエンジンを搭載するWindowsスクリーンリーダーのJAWSを使って訓練を受けているそうだ。しかし、発音やアクサンの表記など問題はないのか、実際に訓練を受けている生徒たちに訊けなかったのが心残りだ。(写真6:無線LAN対応で、ノートパソコンを持ってきて使うコンピューター室)


写真7写真7左:二人の教員が作ったという校舎の立体模型。ブライユが息を引き取ったと考えられている最上階の4階のフロアーも確認できた。

写真7右:昔の点字教科書のほか、古い欧州の触地図や立体地球儀が展示されている博物館。【岩下恭士】

2009年1月29日記事

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2010年12月29日

《ブライユ生誕200年》世界最初の盲学校INJA(1/2ページ)

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◆日本人グループがパリ盲学校を見学(1ページ)

写真1 ◇日本人グループがパリ盲学校を見学
ブライユの命日に当たる1月6日午前8時半。ブライユの生誕200年を祝うために日本から来ていた筑波大と宮城教育大、そして僕らの三つのグループの総勢約20人がユネスコ本部から歩いて来られるほどの距離にある国立盲青年会館=写真1=(INJA、以下パリ盲学校)前に集合した。校内を案内する同校英語教師のマリー・ルネ・エクターさんの手間を考えてスケジュールを調整したのである。


写真2今回の国際会議の主催者の一つでもある国立パリ盲学校はヴァランタン・アユィが1784年に世界で初めて創設した視覚障害児のための専門教育学校で、隣接するヴァランタン・アユィ協会と並んでフランスの視覚障害者にとって中心的な施設の一つである。パリ56番通りアンヴァリッドにある現在の校舎は1843年に建てられたもの(公式に開校したのは1844年2月22日)で、ブライユは1852年の病没まで9年間、ここで教鞭を取った。

写真2:校内に展示されているブライユの胸像。高い位置にあり、頭までは手が届かない。

ちなみに、「Louis Braille: A Touch ofGenius」(マイケル・メラー著)によると、公式な盲教育の発祥は1786年、ノートル‐ダム・デ・ビクトワール(18 rueNotre−Dame−des−Victoire)でのことである。最初の生徒はものごいをしながら幼い兄弟の暮らしを支えていた17歳のフランソワ・ル・スェールで、アユィは彼に授業料(生活費)を払って入学してもらったという。なお欧州で2番目の盲学校は、ヨハン・ウィルヘルム・クラインによって1804年にウィーンに設立された(同書、以下歴史的な記述は主に同書による)。

その後、パリ盲学校は1816〜1843年までセーヌ川南に位置する68 RUEサン・ビクトール(Saint−Victor)に移転する。そこは信じられないほどの劣悪な衛生環境で、入浴は月に1回、調理や生活用水は汚れたセーヌ川の水をくんでそのまま使っていた。建物はがたがたで、校内は換気が悪かったためいつもじめじめしていた。90人の生徒の多くが結核に侵され、校内にはせきが絶えず聞こえていたという。1819年に、10歳のブライユに付き添って同校にやってきた父親はぎょっとした。小さな田舎の村から晴眼者にも負けないほどの高等教育を受けさせようとやっと入学許可をもらった大都会パリの盲学校がこんな状態だったのだから無理もない。

興味深いのはブライユが在学していたころ、盲児のための専門教育施設でありながら、6人の晴眼の生徒も受け入れていたことである(前掲書、p55)。彼らは無償で教育を受ける代わりに、移動のガイドや代筆など盲生徒の介助をする役割を担わされていた。現在は、視覚障害児を受け入れる30の国立教育機関がパートナーとしてさまざまな形で同校を支えている。しかし、INJAは国立の教育機関であるにも関わらず、文部省管轄ではないとのことだった。

「授業は小学生から成人クラスまで、1クラスの定員は12人。現在、155人の盲生徒がいますが、中には3人の盲難聴生もいます。」


写真3エクターさんが説明した。盲学校の児童生徒数の減少が目立つ日本と比べると、必ずしも少ない数ではない。ちなみに現在のフランスの全人口6500万人のうち全盲者は6万5千人、弱視者を含むその他の視覚障害者は120万人である。

20分間の休み時間になると、教室から一斉に生徒がとび出してきた。小学生は、珍しい雪に大喜びで、ワイワイ言いながら雪合戦を始めた。グラウンドに作られたコンクリートのランニングコースは盲生徒が一人で走ることができる。グラウンドの向こうにはバスケットボールのコートもある=写真3=。体育の授業も行われているということだったが、一般的に体育が授業科目になく、グラウンドや体育館もないフランスでは珍しい。

パリ滞在中、ほとんど毎日のようにガイドアシスタントを買って出てくれたパリ在住のメル友Tさんが「高校生くらいだと思いますけど、お化粧もばっちりですよ。男の子たちはみんなエムペートロワ(MP3)をポケットで鳴らしてます」と説明してくれた。化粧は母親か姉妹が手伝ってくれるのだろうか。

盲乳幼児へのプログラムでは、0〜6歳までの盲児と家族のための教育・心理相談室がある。ときには自宅への訪問相談も行い、入学が決まるとまずは校内、学校周辺、そして自宅からの通学路と徐々に範囲を広げて適切な歩行訓練を提供するという。

2009年1月29日記事

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