2010年09月18日

型染め

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2010年09月17日

モーツァルトの時間とベートーヴェンの時間

エドワード・T・ホール『文化としての時間』TBSブリタニカ、1983年より

音楽の全体像を一瞬のうちに捉えることは、不可能であるようにも思われる。しかしモーツァルトの場合は違った。

「構想は、実にあざやかに心の中に姿を現す。私は、一幅の絵を見るようにそれを一目で見渡す。後になればつぎつぎに順を追って現れるけれども、想像の中ではそういう具合に現れず、すべてのものが皆一緒になって聞える」とモーツァルトは手紙の中で述べている。

ベートーヴェンも、頭の中で音楽が聴ける作曲家であった。しかし彼の場合はリアルタイムだったそうである。
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2010年09月16日

ロラン・バルト『彼自身によるバルト』より

何だって?それでは、いくつもの断章を順に配列するときも、そこには組織化がまったくありえないとでも?いや、そうではない、断章とは、音楽で言う連環形式のような考えかたによるものなのだ(『やさしき歌』『詩人の恋』など)。個々の小品はそれだけで充足したものでありながら、しかも、隣接する小品群を連結するものでしかない。作品はテクストの外にしか成立しない。断章の美学を(ウェーベルン以前に)もっともよく理解し実践した人、それはたぶんシューマンである。彼は断片を「間奏曲」と呼んでいた。彼は自分の作品の中に、間奏曲の数をふやした。彼がつくり出したすべては、けっきょく、《挿入された》ものであった。しかし、何と何の間に挿入されていたと言えばよいのか。頻繁にくりかえされる中断の系列以外の何ものでもないもの、それはいったい何を意味しているのか。
断章にもその理想がある。それは高度の濃縮性だ。ただし、思想や、知恵や、真理のではなく、音楽の濃縮性である。すなわち、「展開」に対して、「主題」が、つまり、分節され歌われる何か、一種の語法が、対立していることになるだろう。そこでは《音色》が支配するはずである。ウェーベルンの《小品》群。終止形はない。至上の権威をもって彼は《突然切り上げる》のだ!
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